教えのやさしい解説

大白法 703号
 
身口意の三業(しんくいのさんごう)
 身口意の三業とは、身業・口業・意業の三つをいい、人間の行為を身・口・意志の三種に分類したものです。
 業とは行為・造作の義で、善悪にわたる行為そのものだけでなく、その行為の余力としての習慣力が含まれます。人の行為経験は、いかなるものでもそのまま消滅することなく必ずその余力を残し、それは知能・性格などの素質として保存・蓄積されるのです。

 三業と十悪・十善
 三業は諸経論に広く説かれ、そこには多少の異説があります。身業とは動作や振る舞いに現れること、口業とは言葉に表現されること、意業とは心に思う思慮分別のことをいいます。
 『大乗義章』七巻には、
 「三種の中には身は軽く、口は中、意は最重」
とあるように、身の一切の行動、一切の言語は、意(心)にしたがって生ずるので意業が最も重要であると説かれています。ある物事に対して、実行しようとする心が生じて行動があり、言語として表現されるからです。
 この三業の行為・造作に善・悪・無記(むき)の三種があります。
 悪の三業とは、身に殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)、口に妄語・綺語・悪口・両舌、意に貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴があり、これを十悪ともいいます。善の三業は、これらに反して身に不殺生等、口に不妄語等、意に不貪欲等で、これを十善ともいいます。そして善に非ず悪に非ず、すなわち善悪の結果を招かないものを無記の三業といい、これら善・悪・無記の三業の中に、あらゆる業が含まれます。
 『女人成仏抄』に、
 「然(しか)るに一切衆生、法性真如(ほっしょうしんにょ)の都を迷ひ出でて妄想顛倒(てんどう)の里に入りしより已来(このかた)、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し。されば経文には『一人一日の中に八億四千の念あり。念々の中に作す所皆是三途(さんず)の業なり』等云云」(御書 三四四n)
とあるように、一切衆生は本来、法性真如の清浄なる命より妄想顛倒の悪念を生じて、日々刻々と悪業を積み、三界六道の苦を受けるのです。

 定業と不定業
 また、業とは身・口・意での行為を因として受ける果報のことで、これに定業(じょうごう)と不定業があります。定業とは過去の業因によってすでに定まっている業、不定業とは自他の功徳や善業により改められる業をいいます。
 大聖人は『可延(かえん)定業御書』に、
 「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能(よ)く能く懺悔すれば必ず消滅す。何(いか)に況(いわ)んや不定業をや」(同 七六〇n)
と仰せです。すなわち、過去からの因縁果報による「定業」でさえも、大聖人の仏法を受持信行し、過去の謗法を懺悔するならば、消滅させることができることを御教示されています。

 三業相応の行業こそ肝要
 大聖人は、身口意の三業にわたって信仰を受持することが肝要であると、御書の随所に御指南されています。
 『本尊問答抄』に、
 「されば日本国、或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし」(同 一二七九n)
と仰せのように、大聖人は身口意の三業にわたって法華経の教説を身をもって実践されました。これを色読(しきどく)とも身業読誦ともいいます。大聖人は末法の法華経の行者の逢難を予証した法華経の「勧持品二十行の偈」を身業読誦され、御自身こそが末法の御本仏であることを実証されたのです。
 また『土篭御書』には、
 「法華経を余人のよみ侯は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同 四八三n)
と、身口意の三業相応して法華経を読み、色心共に大難に遭って、それを乗り越えたときにこそ真の即身成仏があることを御教示されています。

 身口意の三業に折伏を行ずる
 第九世日有(にちう)上人は『化儀(けぎ)抄』に、
「事の即身成仏の法華宗を建立の時は、信謗を堅く分かちて身口意の三業に少しも他宗の法に同ずべからず云云(中略)若し又十徳計りにて真俗の差異なき時は、身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼の折伏を心中に油断すれば心業が謗法に同ずるなり云云」(日蓮正宗聖典)
と仰せです。本宗の信仰は、身口意の三業の上において、他宗の謗法与同を禁じると共に、破邪顕正(はじゃけんしょう)の精神を常に忘れず、折伏を行じていくことが肝要であると御指南されています。
 また、第二十六世日寛(にちかん)上人は、
 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が諸法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。是れ則ち身口意三業に法華を信ずる人なり」
(御書文段 六〇八n)
と、本宗僧俗のあるべき姿を御指南されています。
 「身業」とは、御本尊に真剣に向かうこと、「口業」とは、朝夕の五座・三座の勤行と唱題を真剣に行ずること、そして「意業」とは、無疑日信(むぎわっしん)の信心をもって御本尊に対し奉り勤行・唱題をすることです。
 末法は、心を対境(たいきょう)とする観念観法の熱脱の行法では成仏の利益を得ることはできません。身口意の三業の上から御本尊を受持信行するところに成仏があるのです。